シードルとアウン・サン・スーチーさんとお好み焼き
それは昨日の夜のこと。
シェアメイトのセシルに誘われて、夕飯後地元のパブに繰り出した我が娘、随分帰りが遅いなぁ、と心配していたら、夫からスカイプで連絡が。
娘が気持ち悪くて階段を昇れないでいるから救出せよ、と。
降りてみると、娘がシェアハウスのキッチンにうずくまって、うすら笑いを浮かべていた。
そして、立ち上がるや「気持ちワルッ」とキッチンのシンクへ。
なんてこった。せっかくの夕飯がシンクにゲットバック(>_<)
時は深夜、泊まりに来ていた大家さんの息子さんが、しびれを切らして起きてきた。
喋れないストレスと、誘ってもらった嬉しさと、鬼の居ぬ間の解放感でか、グラス3センチ程度のシードルで酔っ払ったらしい我が娘。
セシルは何度も「アイム・ソーリー。イッツ・マイ・フォールト」と言い、娘は「ノー、ノー。イッツ・グッド・メモリー」と呑気に返事。
さらに、娘を励まそうと、自分もよく気持ち悪くなるし、プールに吐いたこともあるよ、とセシル。
私もいろんなところで酔っ払ったし、いろんな人に迷惑をかけたな、でもプールはさすがにないな……と妙な懐かしさがこみ上げてくる。いかんいかん。
胃の中を空っぽにした娘は妙に元気で、「でも、シードルは舌をなめらかにするよ」なんてヘラヘラ。
ああ、この弱さはおじいちゃんに似たんだな。でも、楽しかったのなら、ま、いっか。
さて、学校3日目。
午前中は宿題をしたり復習をしたりして、今日は午後から授業。
最初のレッスンは黒板(といっても実際には白い壁)に2枚、ジャーナリスティックな写真が貼られ、それを英語で説明するというもの。
2枚の写真の共通点と相違点、そこからわかることを話す。
1枚はアウン・サン・スーチーさんだ。20年間の軟禁状態から解放されて支持者に囲まれている日の写真。
もう1枚は貧しい身なりの女性がスマホ片手に電車の荷台にしがみついている写真。
「共通点は?」という質問に「どちらも女性、オリエンタルの」と答える若いイタリア人の男子学生。
すると先生が「オリエンタルという言い方はあんまりよくない。アジアの、と言ったほうがいい」。
オリエンタルの反対はオクシデンタル。
でも、その言葉が使われることは、ほとんどない。
そして、クラスの半分以上を占めるイタリアのティーンエイジャーは、アウン・サン・スーチーさんのことをあんまり知らないようだった。
別のレッスンでは、未だに日本といえば、富士山、着物、日本刀、せいぜい新幹線だということがわかる。プラス、ヒロシマ、ナガサキ、フクシマ。
出題した先生さえ、着物は女性だけの服だと思っていたし、福島を広島、長崎と同じ原子爆弾投下地と思っていた生徒もいた。
日本を外から眺めること。
自分の中のさまざまな偏見を見つめること。
それはこの3ヶ月でしたかったことの一つ。
まだまだディスカッションできる力はないけれど、「壁」を壊せるといいなぁ。
今日の夕飯は、セシルがつくったブルスケッタとズッキーニの煮込み、そして、お好み焼き。
日本から抱えてきたお好みソースと青のりと鰹節と桜エビ、早くも登場。
若いのにフランソワーズ・アルディやシルヴィ・バルタンが好きで、お好み焼きの上でダンスする鰹節に「生きてるの?」と眼を丸くして動画を撮るセシルだった